今和泉島津家の屋敷は鹿児島(鶴丸)城の東北に位置する大龍寺(現大龍小学校)の西隣にあり、篤姫はここに生まれ育った。現在屋敷自体はないが、当時を偲ばせる石垣が通りに面して残っている。
篤姫は嘉永六(1853)年、島津斉彬の実子として約2ヶ月余りを鹿児島城で過ごした後、京都や江戸へ向けて出発した。この時篤姫は、磯の浜辺から見た桜島の絵を持って鹿児島城下をあとにしたという。

●石垣が残る今和泉島津屋敷
| 天保6 (1835)年 | 薩摩藩今和泉島津家の忠剛の娘として生まれる。 |
| 嘉永6 (1853)年 | 島津家本家斉彬の養女となる。 鹿児島を発ち、江戸の薩摩藩邸に移る。 |
| 安政3 (1856)年 | 近衛家の養女となり、第13代将軍・家定の御台所となる。 |
| 安政5 (1858)年 | 家定死去。落飾し天璋院と号す。 |
| 慶応4 (1868)年 | 戊辰戦争勃発。江戸城を去る。 |
| 明治元 (1868)年 | 江戸を東京と改める。江戸城を去る。 |
| 明治16 (1883)年 | 死去、49歳。 |
篤姫(あつひめ)は、天保六(1835)年、今和泉家島津忠剛の長女として生まれた。今和泉家は、家臣団の最上位に位置づけられる高い格式を持つ家である。
嘉永六(1853)年、篤姫に転機が訪れた。藩主島津斉彬の養女に迎え入れられたのである。実は、この数年前、将軍家から島津家に、13代家定の御台所に相応しい娘はいないかと打診があった。家定は、京都から迎えた二人の御台所に先立たれ、病弱で、子どもの生まれる見込みがなかった。大奥の女性たちは、長命で子宝に恵まれた11代家斉とその御台所であった島津重豪の娘・広大院の前例にあやかろうと考えたのである。しかし、申し出を受けた斉彬には年頃の娘がなく、今和泉家の篤姫に白羽の矢が立った。
入輿は、嘉永六年のペリー来航やそれに続く国内の混乱で遅れ、安政三(1856)年、近衛家の養女となった篤姫はようやく将軍家に輿入れすることとなった。この間、国内は開国か攘夷かをめぐって紛糾し、また病弱な家定の後継者をめぐり、紀州家慶福(後の家茂)を推す南紀派と、一橋慶喜を推す一橋派が激しく対立するようになっていた。養父斉彬は一橋派。篤姫婚姻は、慶喜擁立へ向けた政略結婚の様相もおびたが、安政五年、南紀派の重鎮井伊直弼が大老に就任し、一橋派の敗北に終焉。さらにこの年夫の家定・養父斉彬も相次いで死去、篤姫は二十四歳の若さで仏門に入り、天璋院と名を改めた。
その後、篤姫は、14代将軍家茂の御台所となった和宮とともに大奥を束ね、明治維新の動乱期に徳川家存続に向けて働き、維新後は16代当主となった田安亀之助(後の家達)の養育に力を注いだ。そして、家達が立派に成長したのを見届け、明治十六(1883)年静かに息を引き取った。
小説「天璋院篤姫」は、昭和五十八年から五十九年にかけて日本経済新聞夕刊に連載された。宮尾登美子五十七才のとき、彼女にとって最初の歴史小説である。
「夜明けの桜島は、肩の辺りからほのかな桃いろに染まり、噴煙は線香のように細くまっすぐに立ち昇っている」。篤姫が薩摩から江戸に上がり、第十三代将軍徳川家定の正室となる旅から筆が起こされる。「この子が男の子であったら」と悔しがらせることから始まって、総帥としての器量をもった女性としての篤姫を描いている。情報量の少ない大奥で、養父島津斉彬の人形としてではなく、自分の目を信じて世の中を渡っていこうとした姿、病弱な夫・家定との夫婦としての交わりのない生活のなかで、夫をいたわる姿、生活習慣の違う和宮と嫁姑の確執を超えて、とにかく寄り添おうとする努力、江戸城明け渡しのあと、薩摩に帰らず、徳川家の人間として、孫・徳川家達を育て上げる姿など、篤姫のなかから咲き誇る聡明さと感受性の鋭さが、小説「天璋院篤姫」のなかで細やかに、また鮮やかに描かれる。
宮尾登美子の文学は、過酷な運命を背負わされた女性たちの心の声を丁寧に掬い取る。たとえ将軍の正室といえども、その心の内はどのようであったかということを、小説「天璋院篤姫」で、読者は心地よい緊迫感とともに知ることができるだろう。