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ニッポンをチェンジ!幕末の日本に技術革新(イノベーション)をおこした男

外国の軍隊に脅かされたニッポン

9世紀の世界では、新しい技術の開発によって新しい産業が次々とおこり、イギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどが、より安い労働力、原料、市場を求めて新しい武器を装備した軍隊を使い東南アジアや中国に侵略を始め、日本にも手を伸ばそうとしていました。

しかし、当時の日本は、江戸時代の初めの頃に決めた鎖国を行っており、外国とは基本的に交渉ごとを行ってこなかったため、江戸の幕府の人たちは、外国人たちがやってきてもどう対応してよいかわからない状況が続いていました。

祇園之洲砲台跡(鹿児島市)

祇園之洲砲台跡(鹿児島市)
日本の南の玄関口だった薩摩藩では、海辺に砲台を築いて外国船の進入に備えました。鹿児島市内の石橋記念公園には、イギリスと薩摩藩が戦争をしたときに使われた砲台跡が残されています。

イノベーションを巻き起こす島津斉彬

日本の最南端に位置し、海に開かれた薩摩藩の跡取り息子として生まれた島津斉彬は、外国の文化や新しいものが大好きだった曾祖父に可愛がられたせいもあって、成人してからも海外の情報を熱心に調べていました。

そんな時、海を隔てたお隣の国・中国が、強い軍隊を持っているイギリスに侵略されたと知り、斉彬は大変なショックを受けます。そこで、新しい技術を使った武器を持つ外国に侵略されないようにするためには、日本も最新の技術を取り入れて、外国と戦争をしても負けない国にするべきだと考え、43歳で薩摩藩の当主になるとすぐさま新しい技術を導入するよう行動を起こします。

日の丸をつくった斉彬

斉彬はまず、外国の軍隊が攻めてきても打ち払うことができるように、大きな大砲をつくるための設備を島津家の別荘の裏の竹やぶにつくります。そして、「海からやってくる敵は、海で防がなければならない」と考え、大砲を備えた軍艦をつくり始めますが、外国の書物で蒸気を動力にした蒸気船が優れていることを知ると、実物を一度も見たことがないのに図面だけで蒸気船をつくってしまいました。

「SATSUMA」ブランドでニッポンを豊かに

斉彬は、日本が外国から攻め込まれないように強い軍隊をつくろうとしただけでなく、外国と対等に貿易を行い、日本を豊かな国にしようと考えていました。

斉彬が目をつけたのは、当時長崎から輸入されていたヨーロッパ製のガラス器でした。これに手先が器用な日本人特有の技術を加味して、より芸術性の高い色ガラス・薩摩切子を産み出しました。

復元 蝙蝠紋船形鉢(写真提供:株式会社島津興業)

復元 蝙蝠紋船形鉢
透明なガラスに紅・藍・緑などの色ガラスをかぶせ、カットすることで模様を表現した「薩摩切子」。その美しさは世界にも類を見ないほどで大変珍重されました。
画像は、「蝙蝠紋船形鉢(復元)」であり、大きく羽を広げた蝙蝠、その後方には円形の太極文を配し、中国の影響を感じさせる逸品です。

写真提供:株式会社島津興業

また、200年ほど前から薩摩藩で盛んに行われてきた陶器をつくる技術に、海外の新しい技術を導入して、鮮やかな絵付けを施した薩摩焼を完成させます。

薩摩焼も薩摩切子も、将来日本が外国と貿易をすることを見越して、日本に高い利益をもたらす可能性のある付加価値の高い美術工芸品です。実際、薩摩焼は明治時代になると「SATSUMA」のブランド名で、ヨーロッパで高値で取引されることになりました。

薩摩焼

薩摩焼
外貨を稼ぐ輸出用の商品として、外国人が好む金や鮮やかな絵付けを施して完成された「薩摩焼」。海外では今でも「SATSUMA」と呼ばれています。

尚古集成館蔵

スローガンは「国民の生活が第一」

斉彬は、日本人が従来から持っている文化に、外国から入ってきた新しい技術をミックスさせて、国民の生活を豊かにするためにはどうすればいいかを考え、実際に行動した人でした。

ある時、ヨーロッパの工場でつくられた糸を見た斉彬は、こんなにすばらしい糸が機械によって大量につくられているのなら、手作業でつくっている日本の糸はとうていかなわないと感じ、水車を動力に用いて糸を紡ぐ機械を開発しました。

また、ガス灯を日本で初めてつくったり、電信、印刷、写真など、ヨーロッパで開発された新しい技術を進んで実験し、国民の生活を豊かにするためのインフラの整備を考えていました。


雇用対策もぬかりなし!

こうして斉彬の別荘の裏の竹やぶは、あっという間に新しい技術を産み出す近代的な工場が建ち並ぶようになり、工場では1,200人もの人が働いていたといいます。

政治の分野でも、長い間政権を担っていた徳川幕府にチェンジの波が訪れていると悟り、西郷隆盛や大久保利通など、身分の低い家柄に生まれた若者たちを積極的に登用し、彼らを自らの代わりに各地の有力大名のもとに遣わせるなど、重要な仕事を任せました。

チェンジの時代のリーダー像

斉彬は、日本が外国から侵略されない豊かな国をつくることを夢見ていましたが、志半ば49歳で生涯を閉じます。

斉彬の死後、薩摩藩内にはヨーロッパの技術力とそれに裏打ちされた強大な軍事力をみくびっていた者たちもまだ多く、イギリスに戦争をふっかけ惨敗してしまいます。斉彬がつくった最新の工場も戦争で破壊されてしまいますが、力の違いを見せつけられた薩摩の人々は、斉彬の偉業に改めて気づき、工場を再建させました。そればかりでなく、負けたイギリスに留学生を派遣し、ヨーロッパの新しい技術をさらに積極的に学ぶ方向へと大きく舵を切ったのです。その決断が現在の技術大国と呼ばれる日本の土台を築いていることはいうまでもありません。

外国からの大きな力によって、それまで安泰だった世の中に「チェンジ」の荒波が押し寄せていった幕末。そんな時代が今の日本で注目されているのは、斉彬のように将来を見据えた理想を掲げ、それに向かって行動していくリーダー像が求められているからなのかもしれませんね。

異人館(鹿児島市)

異人館(鹿児島市)
江戸時代に描かれた「集成館」の見取り図イギリスとの戦争に敗れた薩摩藩は、イギリスから糸を紡ぐ機械を購入したり、技術者を招いて新しい技術を積極的に取り入れました。写真は、当時イギリスから招いた技術者たちが宿舎として使った建物です。

照國神社六月灯(鹿児島市)

照國神社六月灯(鹿児島市)
斉彬は死後、朝廷から「照國大明神」という神号を与えられ、鹿児島市内の照國神社に祀られています。ここで毎年7月15日、16日にわたって行われる六月灯は、鹿児島市民にもっとも親しまれている一大イベントです。

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