日本全国で活動した西郷隆盛

西郷隆盛の行動範囲は、北は北海道から南は沖永良部島まで全国に及んでいます。
安政元(1854)年に藩主・島津斉彬の江戸参勤に従い初めて薩摩藩の外に出たことから始まり、斉彬の命で他藩へ赴いたり京都での工作を行ったりしました。
元治元(1864)年に復帰してからも京都を中心に活動。薩摩藩は幕末期には多くの蒸気船を所有しており、西郷もこれを利用して短期間での長距離移動も可能となっていました。
南洲神社
全国の南洲神社のうちで一番北に位置している(他は鹿児島市、都城市、奄美市、和泊町にある)。鹿児島市にある南洲神社から分霊して昭和51(1976)年に建立された。この地に西郷が祀られているのは戊辰戦争に由来する。明治元(1868)年、新政府軍に抵抗し続けた庄内藩を攻撃するべく山形に西郷は到着。庄内藩は前年に江戸の薩摩藩邸を焼打ちにするなど薩摩藩にとっては最も敵対する藩のひとつであったが、降伏する庄内藩に対して黒田清隆を通じて寛大な処置を指示した。このことから、旧庄内藩士と西郷の交流が始まり、彼らによって明治23(1890)年に「南洲翁遺訓」が発行される。現在神社がある酒田市と同じく庄内藩だった鶴岡市は鹿児島市と交流を行っている。
薩摩藩 三田屋敷跡
江戸においての薩摩藩主が暮らす上屋敷。安政元(1854)年3月に初めて江戸入りし、西郷が滞在した屋敷でもある。ここで西郷は庭方役となり、後に島津斉彬に召し出されて他藩主らと交流するなどの活躍をみせる。慶応3(1867)年12月には、旧幕府・庄内藩士らの攻撃を受けて焼打ちされる。この出来事がきっかけとなり、鳥羽・伏見の戦いに発展する。
「西郷・勝会見の地」記念碑
明治元(1868)年3月、西郷は東征大総督府下参謀として江戸城総攻撃を行うために江戸に入る。それ以前から勝海舟は手紙において徳川処分に関する条件を打診していた。さらに総攻撃決行が迫ると、直接会談することになり、高輪の薩摩藩邸でも会見は行われた。この碑が建つ場所は薩摩藩の田町蔵屋敷のあった場所とされ、ここでも会見があったとされるため記念碑が建つ。勝との2回の会談によって江戸城総攻撃は中止の方向へ動くことになる。碑の正面の揮毫は、西郷の孫にあたる西郷吉之助によるもの。
二本松 薩摩藩邸跡
京都における薩摩藩邸は錦小路にもあったが、文久2(1862)年に面積5805坪という広大な敷地の藩邸が誕生した。御所警護の目的もあり、京都御所の北西角すぐの場所で現在は同志社大学が建つ。幕末における様々な出来事
は、この藩邸を拠点として行われた。西郷の京都における屋敷はこの近くにあったとされる。この他、京都には清水寺や東福寺、清閑寺など西郷の足跡が残る場所が多くある。
薩摩藩邸跡
伏見藩邸は、参勤交代の際に藩主らが宿泊することも目的としていた。嘉永6(1853)年には、篤姫が京都に向かう際、この藩邸に宿泊している。また、慶応2(1866)年1月に寺田屋で幕府役人から襲撃された坂本龍馬を匿ったのもこの藩邸である。現在、石碑の建つ場所周辺には、伏見らしく酒造工場や運河がある。
白石正一郎 旧宅跡
白石正一郎は、小倉屋という屋号で下関の竹崎浦を拠点とし、萩藩の支藩である清末藩の御用商人であった。嘉永7(1854)年に国学者である鈴木重胤の門人となり、尊王思想に心酔する。このことから西郷ともつながり、小倉屋は薩摩藩との貿易関係を密にしていく。また、白石は高杉晋作の奇兵隊にも資金を提供している。
幕末に志士と呼ばれる人々が活動するためには、このような商人の後ろ楯が必要であった。
延寿王院
太宰府天満宮と隣接する寺院に、西郷は慶応元(1865)年2月に村田新八らと訪れている。それは文久3(1863)年8月に京都から追放され、長州藩と行動した尊皇攘夷派の公家である三条実美らの待遇改善のためである。公家らはこの時に当寺に入り、西郷らも面会している。後に三条実美と西郷は、共に新政府で重要な役割を担うことになる。
長崎薩摩藩 蔵屋敷跡
長崎市の中華街近くの繁華街にある。天領である長崎に、西国の各藩は長崎奉行と連携して警護などのための専用の蔵屋敷を有していた。薩摩藩の蔵屋敷の隣接地には、指宿の豪商である浜崎太平次の長崎支店もあった。西郷がこの地に足を踏み入れた記録はないが、慶応元(1865)年4月と慶応2(1866)年3月に、坂本龍馬も乗船した藩船で長崎を訪れた史料はある。その際には、この蔵屋敷にも立ち寄ったのではないかと考えられる。また、明治5(1872)年6月14日には、明治天皇の西国行幸に同行した際にも、長崎を訪れている。
薩摩藩蔵屋敷跡
全国の米が集積する大坂における藩の蔵屋敷は、水運に便利な土佐堀川沿いにあった。
周辺には長州藩などの蔵屋敷も並んでいて、年貢米や特産品が各藩から集められ賑わう場所であった。大坂の薩摩藩蔵屋敷には西郷と親しい人物が勤めていた。ひとりが坂本龍馬のお龍と霧島への新婚旅行にも同伴した吉井友実。もうひとりが奄美時代から親しい仲であった木場伝内である。西郷も蔵屋敷を度々訪れ、本国と京都などへ向かう際の拠点にしていた。
明治2(1869)年5月
戊辰戦争の応援にかけつけるが到着したときにはすでに戦いは決していた
明治元(1868)年8月
弟吉二郎が五十嵐戦争で負傷し亡くなる
元治元(1864)年11月
長州処分解決のため吉川経幹と会談
慶応3(1867)年2月
土佐藩主・山内容堂に謁見し上京を促す
慶応3(1867)年2月
宇和島藩主・伊達宗城に謁見し上京を促す
安政4(1857)年11月
大久保正助(利通)を伴い長岡監物を訪問
安政5(1858)年6月
福岡藩主・黒田長溥に謁見
慶応3(1867)年10月
小松帯刀らと共に長州藩主毛利敬親父子に拝謁
慶応3(1867)年10月
毛利公に会うため三田尻港に入る

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