西郷隆盛を取り巻く人々

西郷と共に学んだ友、西郷を見出した君主、一緒に明治維新を成し遂げた人物…
西郷隆盛の人生はまさに波乱万丈ですが、彼らもまた幕末、明治維新を生き抜いた人々でした。
盟友でありライバル
西郷とともに「維新の三傑」と称される。天保元(1830)年に高麗町に生まれるが、西郷の住む下加治屋町に引っ越し同じ郷中で成長。父の次右衛門は琉球館勤務、母方の祖父は皆吉鳳徳という学者であった。若い頃は正助、後に一蔵と名乗る。
島津斉彬の下では御徒目付。島津久光が実権を持つと、その元で頭角を現し、西郷が奄美諸島に配流されている際に、着実に藩政を動かすほどの実力を付けていった。元治元(1864)年、西郷が沖永良部島から召還されると、共に数々の難局を克服していく。明治政府では西郷と共に参議として新政府の基盤整備に取り組むが、朝鮮半島への使節派遣問題で意見を違え、西郷が明治政府を離れる原因となる。その後、内務卿として国内の様々な事業を展開するが、西南戦争の翌年の明治11(1878)年、東京の紀尾井坂において暗殺された。
生涯の主君
若き西郷を見出し、また西郷の人生において最も影響を与えたといえる人物。文化6(1809)年に江戸藩邸において島津斉興と正室周子の長男として生まれる。育ちも江戸で、蘭学などへの見識の広い曾祖父の島津重豪の感化を受けて育つ。
42歳となる嘉永4(1851)年にようやく藩主となってからは、富国強兵・殖産興業の政策に着手する。それは日本に迫る外国の脅威に対抗するものであり、後に集成館事業と名付けられ、大砲鋳造や洋式軍艦建造や紡績など多岐にわたる。
安政元(1854)年の江戸参勤の列に西郷は加えられ、江戸にて庭方役を命じられる。さらに安政3(1856)年に西郷は初めて、斉彬の御前に召し出され、密室にて問答を受ける。その後は斉彬から密書を受け取り、水戸や福井の藩主らに届ける任務を担う。しかし斉彬は安政5(1858)年7月16日、幕政改革を果たそうとした夢の途中で死亡。
その思いは「順聖院様御深志」として西郷はもちろん、弟であり国父として薩摩藩を束ねる島津久光らに受け継がれていくことになる。
天保6(1835)年に今和泉島津家に生まれる。嘉永6(1853)年に藩主島津斉彬の養女となり、その後13代将軍徳川家定の御台所となる。西郷は、その婚礼の際の嫁入り道具を揃える役割を担ったという話がある。また、次期将軍の継嗣に一橋慶喜を推挙していた島津斉彬の命を篤姫付き女中頭の幾島に伝達したのも西郷である。慶応4(1868)年には、江戸城総攻撃を前にした西郷に宛てて徳川家存続の嘆願書を送っている。
天保6(1835)年に喜入領主の肝付家に生まれる。安政2(1855)年に吉利領主の小松家へ養子に入り、帯刀清廉と名を改める。幼少期から学問を好み、島津久光の下で文久元(1861)年に側役になり、翌年には家老となり
藩政に大きく関与する。西郷や大久保らと連携を取りながら、幕末の難局を乗り越え活躍するが、体調がすぐれずに明治3(1870)年、大阪で病気で亡くなる。幻の宰相とも称され、明治政府内での活躍も期待されていた。
島津久光は文化14(1817)年に島津斉興と側室お遊羅の子として鹿児島城で生まれ、若くして重富島津家に養子に入る。島津斉彬が死去すると、久光の子の茂久(忠義)がその後を継ぐが、安政6(1859)年に島津斉興が亡くなると、本家に復帰して国父として藩政の実権を握ることになる。西郷とは微妙な関係にあり、命に背く西郷を沖永良部島まで流したり、西郷らの維新の改革に対して不満を抱いたりと、西郷を悩ませ続けた。保守的な面が強いものの、久光の決断なくして薩摩藩一体となっての行動はありえず、明治政府も久光を気遣い続けた。明治20(1887)年死去の際は、国葬が行われた。
島津忠義は島津家第29代当主にして最後の藩主。天保11(1840)年に島津久光の長男として誕生し、安政5(1858)年12月に島津斉彬の遺言により藩主に就任する。父である久光の後見を受けながら藩政を指揮し、斉彬の遺志を受け継ぐべく集成館事業を再開するなどした。朝廷・幕府・他藩との駆け引きや工作には、西郷らを起用し、長州藩とともに明治維新における主導権を握る。西郷らによる西南戦争の際には中立を守った。明治30(1897)年12月26日没。