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草津の本陣跡を訪ねて (2-1)

義父の49日で滋賀に行き、前から行きたかった草津本陣を初めて訪ねました。草津は東海道、中山道という旧5街道の中の2つの主要な道路の分岐点だったこともあって1597年に最初の本陣が創建されています。本陣とは簡単に言うと昔の公家・大名ご用達高級旅館です。最盛期には本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠は70軒余を数えたとか。日本中の230もの大名、藩主の定宿に指定されていますからその活況のほどは十分想像できますよね。あの浅野内匠と吉良上野介が9日違いでこの宿に泊まっていることも面白い話です。また近藤勇他31名の新撰組もここに泊まっています。  草津本陣

この本陣に誰が泊まっているかを告知する目的で各大名が自分で持ち込む関札(せきふだ)という木版(縦1m30cm、横40cm程度)を入り口に掲げたそうですが今残っているものだけ見ても松平、細川、毛利、今川、近衛などがあり往時を忍ばせます。『宿(やど)』と称する場合は泊まる方が食事の材料と料理人を自ら持ち込み、『(とまり)』という時は本陣側で料理を出し、『(やすみ)』は本陣でお昼休みを取るという区分になっていたそうです。島津もここを利用していたようで島津のお殿様がご休憩中だという当時の張り紙も残っています。 島津(佐土原藩)

 現存の本陣は正式には『田中七左衛門本陣』といいます。大きなお屋敷で部屋数は正確には覚えていませんが多分15位でしょうか。はっきり覚えているのはトイレが5つもあったということです。最大のトイレはお殿様のトイレで上段雪隠(せっちん)と呼ばれています。畳敷き2畳の広さの真ん中にトイレがあり、正面に掛け軸があり、お香も焚かれていたといいます。1回用を済ませるたびに取り出して処理していたと書かれています。掛け軸を眺めながら皆様何を考えていたんだろうかと考えてしまいました。

 ここの本陣の歴史を紐解けば1839年に島津の支藩だった日向国佐土原城主島津忠徹(ただのり)が江戸への参府の途上、ここで亡くなっていたということが分かります。当時は跡目相続については当主の生きている間に決めて幕府の了解を得る必要があったようで、佐土原藩は死亡の事実を幕府に隠し、ご遺体を70日間この本陣に残し、その間に跡目を決めて幕府の了解を得たという秘話も残っています。 

篤姫がらみでちょっとした発見!皇女和宮は文久元年(1861年)徳川家14代の家茂との婚礼に江戸に向かう途上の10月22日にここに立ち寄っています。京から江戸まで距離の短い東海道ではなく中山道を通る25日をかけた旅でした。この時の随行員は何と26,000名でこの草津宿を通過するのに4日もかかったと言われています。当時嫁入りは東海道ではなく中山道を通るのが通例だそうです。宮尾登美子氏の小説には篤姫も京を発ちここ草津を通って木曽路に入り約13日で江戸に入ったと書いてあります。体力の差なんでしょうか篤姫(1日約39km)は和宮(1日20km)の倍の速度で進んだことが分かります。和宮が江戸城に入って篤姫に正式に挨拶するのに時間がかかったとの記載が小説にあったように記憶していますがただでさえうら若き16歳の華奢な和宮、しかも25日もかけての長旅、さぞやお疲れになったことだと思います。 (2-2に続く)

 

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