初めて聞く充姫という方は江戸生れの江戸育ちで延岡の内藤家第14代内藤政順(まさより)に14歳で嫁いだ女性です。彦根藩主井伊直中の実子として生れ、内藤家に入り名を繁子と変えました。弟には桜田門外の変で暗殺された第13代井伊直弼がいます。充姫はキリがいい1800年に生れ1880年に亡くなっています。ですから篤姫が生れた時にはすでに35歳でした。篤姫が亡くなったのは1883年ですから篤姫の生涯のほとんどの期間を共有していたことになります。本人どうしが出会ったかどうかは分かりませんが篤姫の夫である家定の後継者問題では篤姫は斉彬の意思を守り一橋派、井伊直弼は南紀派と分かれて対立、結局南紀派が勝利して14代家茂が誕生、ここに公武合体により和宮が下向すると言うストーリーが展開されます。
一方参勤交代とはご承知の通り1年ごとに諸大名が江戸に参府する制度で、その間妻子は江戸に人質として留め置かれ、幕府に忠誠を誓わせる制度でありました。この制度自体は関が原の戦い以降自発的に始まり1635年の武家諸法度で制度として確立したようです。しかし200年以上も経過する中で制度疲労が生じ、1862年になると一時的ではありますが3年に1度に改められたようです。この制度緩和に伴いそれまで江戸に留まっていた妻子にも里帰りが認められました。
篤姫同様子宝には恵まれなかったものの繁子は21年間夫と連れ添い、35歳の時に夫が死去し充眞院繁子と名前を変えましたがそのまま江戸に残り還暦を過ぎた62歳の頃参勤交代の制度変更に伴い生れて初めて国許日向の国へ帰ることになりました。当然天璋院と名前を変えた篤姫も帰りたかったはずです。その思いは宮尾登美子氏の小説の中でも十二分に伝わってきます。でも帰らなかった。帰れなかったんでしょう。それはまさに1862年家茂が和宮との婚儀を整え、1863年尊皇攘夷を約束する為229年ぶりの上洛の儀もあったからだと思います。夫を早々に亡くし、外圧が強まる中で将軍の制度そのものが危ぶまれる世の中に大きな不安を感じながらも何とか徳川家を守らねば、という篤姫の苦悩は多分NHKでも画かれることでしょう。
一方繁子は延岡のような田舎に住むことなど考えたこともなく、出発が近付くにつれ、悲壮感が先立ち、大阪から海路延岡に到着するまで涙、涙の連続だったとか。2ヶ月かけてようやく延岡に入ったそうです。しかし持って生れた江戸っ子的性格でもありましょうが繁子は何事でも自ら体験したい性分で、記録を取り、見事な絵日記、旅日記を画き、地域の民との交流にも積極的で、あっと言う間に2年が過ぎ、参勤交代の復活もあって1865年に再び江戸に戻ることになりました。この時『こたひ厚き思召にて、元之通東にかへれよとの仰を聞、夢かと計嬉し、、』と喜びを表しています。しかし彼女は68歳の時に再び延岡を訪ね72歳になる迄滞在しています。こういう選択ができた彼女はまさしく幸せだったと思います。
私は篤姫が可哀想に思えて仕方ありません。この時代英国から派遣され25年間の長きに渡り江戸から明治の大変革期をつぶさに目にした外交官アーネストサトウも第13代将軍家定について『力量が無く世界の情勢に疎い将軍』と厳しいコメントを残しています。体が弱く、激動の江戸末期の国の舵取りとしては頼りない夫に嫁がされ、たった1年半で先立たれ、跡目政争にも巻き込まれ、薩摩の武士による外人殺傷問題で国家賠償を求められ、家を出るにも出られない、帰るにも帰れない状況の中で本当に辛かったんだと思います。篤姫を語るとき、家を守り、江戸城の無血開城に力があったなどということで褒め称えるのではなく一人の女性として何の選択枝も持ちえなかった悲しさの方を忘れてはいけないと思います。 尚内藤充眞院繁子については(有)鉱脈社発行『じゅぴあ5月号』を参考にさせて頂きました。


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