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戦国島津ゆかりの地を訪ねて―熱血と慈悲の島津義弘公―

関ヶ原の敵中突破で知られる島津義弘公。その遺徳をしのぶ伝統行事「妙円寺詣り」が毎年行われているほど、鹿児島で親しまれている人物です。様々な角度からその魅力に迫るほか、県内のゆかりの地をご紹介いたします。

島津義弘公ってどんな人物

「武人」...否、信心深い人物でもある。

生涯で52度の合戦に出陣し、寡兵で大軍を打ち破ったり、関ケ原の戦いで的中を突破したり・・・と数多の戦功に彩られている。戦国時代屈指の武人である。しかし、義弘は「武」のイメージが強いが、それだけの人物ではない。学問に秀でた文化人で、産業振興にも力を入れた。領民に慕われ、部下を大事にし、敵味方問わず供養する信心深さの持ち主でもある。知れば知るほどいろいろな顔が見えてくる。島津義弘とは、じつに魅力的な人物なのである。
 



◆炎立つ鬼神の如し


「雲霞の如き大軍をものともせず、船上を縦横無尽に斬りまくる。兜から炎立ち、鬼神の如し」。豊臣家が九州を攻めた際、敵方の毛利元房は根白坂での義弘の奮戦ぶりを見て大いに感じ入ったという。のちに毛利元房は頼み込んで義弘に仕官。関ヶ原の戦いにて戦死した。(『軍神島津義弘公』より)
 

◆島津の退き口

関ヶ原での東軍勝利がほぼ決した中で島津軍は戦場に孤立。義弘は「敵はいずかたが猛勢か」の問いに家臣は「東より敵、もってのほか猛勢」と応える。東には徳川家康の本隊がいた。義弘は「その猛勢の中へあい駆けよ」と命じた。(『神戸久五郎覚書』<『旧記雑録』に収録>より)
 

◆年老いても衰えず

80歳を過ぎても、馬を走らせて山を駆け下りた。慌てて追いかけた家来衆の多くが落馬したが、義弘は悠々と馬を操った。(『薩摩旧伝集』より)
 

◆戦ですぞ!

晩年の義弘は、食事もままならないほどに衰弱していた。そんな状態でも閧の声を挙げて「殿、戦ですぞ」と声をかけると、起きて食事を始めたという。(『薩藩旧伝集』より)
 

◆前を通りますよ
 
関ヶ原の敵中突破の際、義弘は徳川家康に使者を出している。大胆にも「ただいま陣頭を通過します」と帰還のあいさつをした。あわせて「敵方についたのは本意ではない。委細は後日改めてお話しします」とも伝えたという。(『惟新公関原御合戦記』より)
 

◆かねて謀りし事なり、いずれも心得たる

加久藤城をわざと手薄にして攻めさせたという。偽情報を流し、難所である鑰掛口に伊東軍を誘導したとも。兵の動かし方や領民による偽兵策などの作戦も事前に練られており、敵軍襲来を確認した義弘はすみやかに命令を下した。(『日州真幸院加久藤木崎原御合戦伝』より)
 

◆身分の上下に関わらず

朝鮮出兵では寒さが厳しく、日本軍では凍死者が続出した。しかし島津隊にはひとりも出なかった。加藤清正はこのことを不思議に思い、義弘の陣を訪れた。兵営では身分の上下に関わらず一緒に暖を取って粥をすすっている。義弘は兵士と寝食をともにし、夜も3回ほど陣中を巡って火が不足していないか気を配っているという。これを知った清正は深く感じいった。(『島津義弘公記』より)

◆愛妻家

義弘は愛妻家であった。妻宛の手紙が数多く残っており、朝鮮からの便りには「今夜もそなたを夢にミまいらせ(今夜もあなたを夢で見てしまったよ)」、「くハしき文共さいさいをこせ可給候(ちょっとしたことでも手紙で知らせてください)」といったことも書かれている。(『加治木島津家文書』より)
 

◆拝謁の折り

諸子の子が初めて義弘に拝謁したとき、武勲のある者の子には「父によく似ているから、きっと功を立てるだろう」、武勲のない者の子には「おまえの父は運悪く功を挙げる機会に恵まれなかった。そなたは父より優れて見える。きっと功を立てるだろう」と励ました。(『名将言行録』より)


 

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島津義弘没後 戦国島津ゆかりの地を訪ねて

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