中薩摩 反射炉跡 大砲の砲身をつくるための 金属溶解反射炉 オランダの技術書をもとに建設された、大砲の砲身をつくる施設。炉内部の天井や、壁に炎と熱を反射させて鉄を溶かすため反射炉と呼ばれました。反射炉の建設は製煉所で小型のひな型をつくり、鉄の溶解実験からスタート。実験は難航しましたが、斉彬は「西欧人…
中薩摩 錫山 薩摩の近代化を支えた錫鉱山 1655年、島津家の家臣・八木主水佑元信によって発見されたのが錫鉱山です。1701年には薩摩藩の経営となり、1853~1854年には斉彬の命で湧上坑において、約14万8千斤(約89トン)もの錫を産出したといわれています。労働者は、尾張(愛知…
中薩摩 沖小島砲台跡 鹿児島湾に浮かぶ 沖小島の臨時砲台跡 沖小島砲台は、鹿児島湾沖にある沖小島に設置された砲台。小型の和式砲が15門配備されていて、イギリス艦隊に砲撃を行いました。しかしながら、威力不足のため損害を与えることができなかったといわれています。また、薩英戦争当時は沖小島と燃崎の間には水…
中薩摩 火の河原跡 馬で鉄を運搬し 集成館へ供給した製鉄炉 幕末に操業した製鉄集落の跡。火の河原は「ひのこら」と呼ばれ、火は木炭が燃える火、河原は溶けた鉄が流れ出す様子を言い表しています。集落の人々は製鉄と木炭の製造のために万之瀬川下流の川辺周辺から移住してきたといわれています。そして藩の管理の下、…
中薩摩 造士館跡 あの西郷隆盛などを輩出した 薩摩藩の藩校「造士館」 1773年に島津重豪が創設した藩校。隣接地には諸武芸を学ぶ演武館や、医学を学ぶ医学院も創設されました。島津斉彬は「学問は実際に世の中に活用され、人の生きる道に役に立つようにすべき」との理念を掲げて造士館の教育改革に着手。斉彬は造士館で日本の…
中薩摩 祇園之洲砲台跡 薩英戦争で最も被害のあった 薩摩藩の砲台・祇園之洲砲台 1863年の薩英戦争のときには6門の大砲が配備されていました。イギリスの軍艦1艘が砲台前で座礁し、この軍艦の救援のためにイギリス艦隊は祇園之洲砲台に集中砲火を浴びせます。そのため祇園之洲砲台は、最も被害の大きな砲台に。現地には今も長さ約11…
中薩摩 天保山砲台跡 薩英戦争で先陣を切って 砲撃した天保山砲台 天保山砲台は島津斉興による建設後、島津斉彬が改修して薩英戦争時には11門の大砲が配備されていました。1863年7月2日、イギリス艦隊が薩摩藩の蒸気船を捕獲したことで薩摩藩は開戦を決定。天保山砲台からの砲撃を合図に、各砲台一斉に砲撃を開始しま…
中薩摩 寺山炭窯跡 集成館事業のための 白炭をつくった炭窯 【お知らせ】寺山炭窯跡周辺一帯の立ち入り禁止について 令和元年6月28日(金曜日)の石積み右面の崩落に引き続き、7月1日(月曜日)、炭窯北東側の遊歩道の上部側から土砂崩れが発生し、遊歩道を含む炭窯の大部分が埋没しているため、寺山炭窯跡およ…
中薩摩 新波止砲台跡 島津斉彬が建設 鹿児島城下の主力砲台 鹿児島城下の防衛のために設置された主力砲台。島津斉彬が、1846年頃に建設されていた防波堤を改築し、凝灰岩の切石によって砲台を建設しました。薩英戦争時には、国内最大級の150ポンドボンカノン砲をはじめとする11門の大砲を配備。イギリス艦隊と…
中薩摩 琉球館跡 薩摩藩の外交の場 貿易の拠点となった琉球館跡 毎年、琉球王国では春になると使節の派遣を行い、派遣された使節は琉球館に一年間滞在しました。また、島津家にめでたいこと、逆に災いなどが起きたときは特使が派遣されたといわれています。琉球館跡は琉球貿易の取引場所でもあり、薩摩藩の外交、貿易の拠点…
中薩摩 関吉の疎水溝 集成館事業の動力! 水の取水施設 関吉の疎水溝は、江戸初期に農業用水のために建設。そして1722年、島津吉貴が仙巖園へ水を供給するために磯地区まで延長します。集成館では高炉や鑽開台の動力源として水車を使用していましたが、磯地区には大きな川がないため、島津斉彬は関吉の疎水溝の…
中薩摩 仙巖園 近代化事業の実験の場にもなった島津家の別邸・仙巌園 350年以上の歴史がある島津家の別邸は、1658年に島津光久が景勝地であった磯に造営。その後、島津重豪をはじめとする島津家歴代が整備などを行いました。桜島を築山に錦江湾を池に見立てた雄大な借景庭園で、琉球国王から贈られた望嶽楼な…
中薩摩 旧集成館機械工場 現存する日本最古の 西洋式機械工場 洋式船や蒸気機関の修理、部品製造を行った集成館の機械工場。この石造りの建物の責任者は、技術者・竹下清右衛門でした。竹下は長崎製鉄所などの西洋式の建物を参考に工場を建設。そのため屋根を支える小屋組が不完全で、和小屋のような太い梁や石壁の基礎部…
中薩摩 横山(袴腰)砲台跡 薩英戦争で火を噴いた 桜島の砲台 桜島フェリーターミナル辺りに説明板が設置されています。1863年の薩英戦争時には、4門の大砲を配備。イギリス艦隊を砲撃すると砲台のすぐ目の前に碇泊していたイギリス艦のバーシューズは驚き、錨を切り離して離脱したといわれています。その後引き揚げ…
中薩摩 開成所跡 薩摩藩の近代化に貢献する 人材を育成する洋学校「開成所」 開成所はもともと島津斉彬が計画し、薩英戦争後、島津忠義や小松帯刀らによって藩士がヨーロッパの科学技術を学ぶために設立されました。石河確太郎や松木弘安(寺島宗則)などの西洋学の第一人者が教授となり、英語やオランダ語のほか、砲術、数学、物理、医…
中薩摩 旧鹿児島紡績所技師館 鹿児島紡績所の指導者 イギリス人技師たちの宿舎 日本で最初期の木造西洋建築。西欧人たちがアジアなどの植民地によく建設したコロニアル様式の建物です。外見は洋風ですが、屋根裏の小屋組みが和小屋であり、見えないところに日本の建築技術も用いられていました。イギリス人の指示に基づき、日本人の大工が…
中薩摩 射場山跡 当時は砂浜にあった 薩摩藩の洋式砲術の演習場 1846年8月28日、島津斉彬が現地に残る築山から、洋式砲術の演習を視察したといわれています。その日の演習は真夏の炎天下の中、大人数で大砲を押し移動させる実戦さながらの、大がかりなものであったと伝えられています。演習の責任者は成田正右衛門が…
中薩摩 集成館ガラス工場跡 薩摩切子が生産された 歴史と伝統のあるガラス工場 島津斉彬はガラス製品を量産するため集成館にガラス工場を建設。1858年に集成館を見学したオランダ海軍の軍医ポンペはおよそ100名もの職人が働き、贅沢品から日用品まで幅広く製造していたと記録しています。1858年、斉彬の死に伴って工場は縮小。…
中薩摩 鶴灯籠 日本初のガス灯実験 仙巌園にある鶴の姿の灯籠 鹿児島の名勝である仙巌園には多くの灯籠がありますが、なかでも一番有名なものは鶴灯籠です。「鶴が羽根を伸ばした姿」に見えることから鶴灯籠と呼ばれています。島津斉彬は、蘭学者である松木弘安(寺島宗則)らに石炭ガスの製作法やガス灯に関する研究を命…
中薩摩 鹿児島紡績所跡 日本初! 蒸気機関動力による ヨーロッパ式の機械紡績所 薩摩藩英国留学生とともにイギリスに渡った、藩使節の五代友厚や新納久脩。彼らはプラット・ブラザーズ社に紡績工場の設計を依頼します。そして、機械を発注し、技師派遣も依頼しました。工場はプラット・ブラザーズ社の設計に手を加え、地元の凝灰岩を使った…