中薩摩 反射炉跡 大砲の砲身をつくるための 金属溶解反射炉 オランダの技術書をもとに建設された、大砲の砲身をつくる施設。炉内部の天井や、壁に炎と熱を反射させて鉄を溶かすため反射炉と呼ばれました。反射炉の建設は製煉所で小型のひな型をつくり、鉄の溶解実験からスタート。実験は難航しましたが、斉彬は「西欧人…
中薩摩 関吉の疎水溝 集成館事業の動力! 水の取水施設 関吉の疎水溝は、江戸初期に農業用水のために建設。そして1722年、島津吉貴が仙巖園へ水を供給するために磯地区まで延長します。集成館では高炉や鑽開台の動力源として水車を使用していましたが、磯地区には大きな川がないため、島津斉彬は関吉の疎水溝の…
中薩摩 火の河原跡 馬で鉄を運搬し 集成館へ供給した製鉄炉 幕末に操業した製鉄集落の跡。火の河原は「ひのこら」と呼ばれ、火は木炭が燃える火、河原は溶けた鉄が流れ出す様子を言い表しています。集落の人々は製鉄と木炭の製造のために万之瀬川下流の川辺周辺から移住してきたといわれています。そして藩の管理の下、…
中薩摩 寺山炭窯跡 集成館事業のための 白炭をつくった炭窯 【お知らせ】寺山炭窯跡周辺一帯の立ち入り禁止について 令和元年6月28日(金曜日)の石積み右面の崩落に引き続き、7月1日(月曜日)、炭窯北東側の遊歩道の上部側から土砂崩れが発生し、遊歩道を含む炭窯の大部分が埋没しているため、寺山炭窯跡およ…
霧島・姶良 鍋倉製鉄所跡 反射炉へ鉄を供給した 鍋倉製鉄所跡 鍋倉製鉄所は在来の製鉄技術で鉄を製造する施設で、製鉄炉は2基か3基ありました。1基は島津斉彬が母の実家、鳥取藩主・池田家に依頼して築いたタタラ製鉄炉。砂鉄も山陰などから取り寄せられていました。もう1基ないし2基は、薩摩在来の背の高い石組製鉄…
中薩摩 高炉跡 大量の鉄を生産する ヨーロッパ式の製鉄炉 鉄鉱石や砂鉄などから鉄を大量につくる製鉄施設は、反射炉と同様にオランダの技術書をもとに建設されました。高炉の高さは約7.2m。高炉による製鉄は炉の温度を1200~1500度に保つ必要があるため、水車動力を活用して大量の風を送風、炉内を高温に…
霧島・姶良 森山家住宅土蔵・主屋・旧作業場 集成館から移築されたと 伝わる鋳物工場 薩摩藩御用達の鋳物師であった森山家の本宅。森山家は、鍋釜などの製造が盛んであった加治木にて、藩に納める茶釜や、奄美の黒糖生産に必要な大鍋や機械類を鋳造していました。島津斉彬は、森山家に江戸の鋳物職人・西村道也を招き、藩のための大砲生産や鋳銭…
大隅 志布志砂鉄採取地 集成館の高炉で使用する 砂鉄を採取した夏井海岸 江戸時代から明治時代の志布志地域では、夏井海岸から砂鉄を採取し、盛んに製鉄を行っていました。ここ夏井海岸の砂鉄は、市内のたたら製鉄所に運ばれて製鉄されていました。この製鉄所で作られた鉄は、集成館にも運ばれて高炉製鉄の原料に使用されていました…
南薩摩 頴娃砂鉄採取地 集成館の高炉で使用する 砂鉄を採集した海岸 江戸時代の知覧地域では、主に頴娃の海岸から砂鉄を採取し、盛んに製鉄を行っていました。特に、頴娃村矢越の浜の砂鉄は良質であると有名で、厚地松山製鉄遺跡のほか、集成館にも運ばれて高炉製鉄の原料に使われていました。砂浜には砂鉄が集中する場所がある…
中薩摩 南京皿山窯跡 耐火レンガの開発に貢献した 南京皿山窯跡 薩摩川内市平佐窯で修行した白欣円らが、天草陶石を用いて染付茶碗や皿など、主に日用食器を焼いていました。天草陶石は、熊本県天草下島で産出され、1,300~1,400度の高温で焼く磁器の原料として使われていました。高温に強い天草陶石を利用した窯…
中薩摩 落とし 集成館に動力となる 水を“落とし”た分水地 関吉の取水口から吉野台地に沿って7㎞ほど下ったところに位置する分水地。取水口から水路によって運ばれた水は、ここで磯川と立体交差して仙巌園へと運ばれました。「落とし」という地名は、“ここから水を磯邸に落とした”というこ…
中薩摩 磯窯跡 耐火レンガを焼いた 薩摩焼の窯跡 耐火レンガの製造や薩摩焼の技術改良を行うために建設された登窯です。朴正官らは、「金欄手薩摩」と呼ばれる金を多用した、華やかな薩摩焼の研究を行いました。さらに、ヨーロッパ式の食器の生産も試みられたといわれています。窯は石垣の上に建設されており…
中薩摩 製煉所(開物館)跡 反射炉のひな型をつくった 薩摩藩の総合研究施設 製煉所は、集成館事業に必要な理化学実験を行う総合研究施設。鶴丸城内に設置され、藩の蘭学者が洋書をもとにさまざまな研究や実験を行いました。ここで行われた実験には、反射炉のひな型(ミニチュア)製作や金属分析、酸類、紅ガラス、アルコール製造などが…