島津義弘公の戦い(第一部)

戦場では鬼の如し その武名、九州に轟く
戦国大名としての島津家は貴久の代で薩摩平定、続く義久の代には三州(薩摩・大隅・日向)統一を成し遂げて九州制圧目前まで勢力を広げた。その中で、島津義弘はつねに戦いの最前線に身を置いていた。
乱世に生を受け、勇猛な若武者へ
島津義弘は天文4年(1535年)に伊作城で生まれた。その頃の薩摩は内乱の真っただ中。忠良・貴久父子が戦国大名としての足場を固めつつあり、名将である祖父・父の活躍を目にしながら成長した。
多宝寺跡
多宝寺跡
多宝寺は伊作島津家の菩提寺であった。同家歴代の墓所があり、弘安の役で元軍と戦った初代久長以下、忠良の父・九代善久などが眠っている。
(日置市吹上町)
 
伊作城跡(亀丸城跡)
伊作城跡(亀丸城跡)
義久・義弘・歳久・家久の4兄弟はここで誕生。築城は南北朝時代(14世紀)とされ、伊作島津家の本拠地として代々受け継がれてきた。
(日置市吹上町)
城山公園(一宇治城跡)
城山公園(一宇治城跡)
鎌倉時代に作られた山城。薩州家の島津実久の手にあったが、1536年に落城させて貴久が奪った。その後、1545年~1550年に本拠地とした。
(日置市伊集院町)
華々しき初陣「岩剣城の戦い」
薩摩北部から西大隅(現在の姶良市一帯)にかけては祁答院(けどういん)氏、蒲生(かもう)氏、といった貴久に従わない勢力が多数あった。反抗勢力は手を組んで貴久に対抗。一度は屈するものの再び反旗を翻し、全面戦争へと突入する。この西大隅の戦い(大隅合戦)の中で、天文23年(1554年)の岩剣城(いわつるぎじょう)の戦いはひとつの大きな転機となった。そして、この戦いでは義久、義弘、歳久が揃って初陣を飾っている。
岩剣城跡
岩剣城跡
16世紀初め頃に祁答院良重(けどういんよししげ)が築城。標高は210メートル。切り立った地形の山容は強烈な存在感を放つ。立地が不便なために、義弘は麓に平松館(現在の重富小学校)を築いてこちらを居館とした。
(姶良市平松)
大口筋白銀坂
大口筋白銀坂
薩摩国から大隅国に抜ける道のうち、国境にあたる。戦国島津家が大隅への出兵にも通った道で、岩剣城の戦いの際には義弘が陣を構えた。
(姶良市脇元)
岩剣神社
岩剣神社
(姶良市平松)
 
九州制覇への布石
西大隅(姶良)の平定後は、義弘は豊州家(ほうしゅうけ)の島津忠親(ただちか)の養子となる。その本拠地である飫肥(おび)(現在の宮崎県日南市)に入り、日向(現在の宮崎県)方面の守りを固めるが、3年間在番したのちに養子縁組を解消して鹿児島に戻る。そして永禄7年(1564年)に真幸院(まさきいん)(現在の宮崎県えびの市・小林市の一帯)の領主に任じられ、飯野城(いいのじょう)を居城とした。真幸院は日向・肥後・薩摩・大隅の国境にあり、まさに飯野城は伊東氏に対する前線基地であった。元亀2年(1571年)に父・貴久が没すると、翌年に伊東軍が真幸院を攻撃。義弘は寡兵でこれを壊滅させた(木崎原の戦い)。この勝利は、伊東氏の力を失わせるきっかけとなった。飯野城には26年もの長きにわたって在番し、大口の菱刈氏との戦い、肥後方面への出兵など、数多くの戦いにのぞんでいる。
十倍の軍勢を打倒「木崎原の戦い」
元亀3年、伊東軍約3000が真幸院の加久藤城(かくとうじょう)を攻めた。夜襲を受けた加久藤城は義弘の妻と川上忠智(かわかみただとも)(義弘の家老)が守っており、城兵はわずかに50人ほど。一方義弘は飯野城におり、こちらの手勢も300人ほどに過ぎなかった。闇の中、断崖の難所より伊東軍に攻められた加久藤城は、城兵や救援隊の奮闘もあり落とされることはなかった。伊東軍は川内川を渡り、木崎原方面へ退却して鳥越城(とりごえじょう)へ集結。義弘は手勢を分け、遠矢良賢(とおやよしかた)に50余人を預けて加久藤城救援部隊とし、五代友喜(ごだいともよし)の部隊40余人と村尾重侯(むらおしげあり)の部隊50人ほどを伏せさせた。そして、義弘率いる130人ほどの本隊が木崎原へと向かい、鳥越城の伊東軍へ攻め込んだ。緒戦は後退したが、義弘はすばやく軍を立て直し反撃。側面と後方から攻め込む伏兵部隊に加え、大口などからの応援部隊も駆けつけて激戦を展開し、伊東軍は有力武将が次々と戦死、壊滅状態となり小林へと敗走した。戦死者は両軍合わせて800人以上とされる。義弘も激戦の中で一騎打ちを行い、伊東祐信(いとうすけのぶ)や柚木崎正家(ゆのきざきまさいえ)などを討ち取っている。
飯野城跡
飯野城跡
平安時代末期に日下部(くさかべ)氏によって築城。島津家の支配下となり、永禄7年(1564年)~天正18年(1590年)に義弘が居城とした。
(宮崎県えびの市)
 
木崎原古戦場跡
木崎原古戦場跡
両軍が激突した場所。島津義弘が敵将と激戦を繰り広げた「三角田」、血に染まった刀を洗ったとされる「太刀洗い川」など、当時の面影を残す。写真は、義弘が両軍の戦死者の供養のために建立した六地蔵塔。
(宮崎県えびの市)
 
飯野の大イチョウ
飯野の大イチョウ
夭折した長男・鶴寿丸(つるひさまる)の供養のために義弘が植えたとされる。
(宮崎県えびの市)
 
膝跪騂(ひざつきくりげ)の墓
膝跪騂(ひざつきくりげ)の墓
膝跪騂とは義弘の愛馬で、20以上の合戦に出陣したという。木崎原の戦いでは、一騎打ちの際に膝を折り、義弘の危機を回避したと伝えられる。
(姶良市鍋倉)
 
団結力の差で大勝「耳川の戦い」
日向の伊東義祐(いとうよしすけ)は木崎原の敗戦から勢いを失い、島津氏に圧倒されていく。義祐は豊後(現在の大分県)の大友氏のもとへ逃亡し、日向半国を譲ることを条件に旧領奪回の援助を大友宗麟(そうりん)に願い出た。宗麟はこれを引き受け、天正6年(1578年)に兵5万もの大軍(数については諸説あり)を南下させた。しかし、大友家の重臣たちの中には反対する者も多く、足並みは揃っていなかった。縣(あがた)(現在の宮崎県延岡市)の松尾城を攻めた緒戦は大友軍が快勝。その勢いに乗じて山田有信(やまだありのぶ)が守る新納院高城(にいろいんたかじょう)(現在の宮崎県児湯郡木城町)へと攻めかかった。佐土原の島津家久など援軍も入城し、高城には約3000人の兵が篭る。防戦して時間を稼いでいる間に、鹿児島から島津義久、飯野から義弘の軍勢も到着。数の上では大友軍に及ばないものの、こちらも大軍勢となった。決戦の地は高城川。義弘の部隊は夜のうちに川を渡り、敵陣のすき間に兵を伏せた。昼になり合戦が始まると島津方はお家芸の「釣り野伏せ」を仕掛ける。これは、釣り役の部隊がわざと敗走して敵を誘導し、伏兵とともに取り囲んで攻撃する戦法で、軍の統制と団結力を要する。勢いづいていた大友軍は術中にはまり、混乱しきった大軍が北へ敗走。耳川を渡って自領に撤退しようとするが、雨で増水した川をなかなか渡れない。追いついた島津軍の猛攻撃のほか、溺れた者も多く、大友軍は壊滅した。
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