島津義弘公の戦い(第二部)

天下が畏敬する老練の「鬼島津」
秀吉に降った時点で義弘はすでに50歳を過ぎ、老境に差しかかっていた。当時では隠居してもおかしくない年齢だが、豊臣政権下でも強烈な存在感を放つ。軍略は豊富な経験によりさらに磨きがかかっており、戦場に出れば鬼神のごとき活躍を見せた。
兄は国許のために 己は天下のために
九州平定後の天正15年(1587年)、義弘は上洛して大坂で豊臣秀吉に拝謁し、豊臣姓と羽柴姓を賜る。秀吉は義弘を大隅の領主に任じ、義久とは別に独立した大名として遇しようとした。これは島津家内の分裂を狙ったものともされているが、義弘はあくまでも兄を立てる姿勢を崩さなかった。義久は国許からあまり動かず、中央政権からの命令に対しては義弘が動くことが多かったため、対外的には島津家を代表する存在であった。
松尾城跡
九州仕置で真幸院を息子の久保に譲り、義弘は松尾城へ天正18年(1590年)に移り住んだ。もともとは中世の山城だが義弘の手で大修築が施されている。現在も本丸の石垣が残る。
(姶良郡湧水町木場)
二度の朝鮮出兵と薩摩焼の誕生
義弘は二度の朝鮮出兵に従軍し、大きな戦功を挙げている。島津軍の強さは敵軍からも恐れられた。とくに撤退戦などで活躍し、帰還後に義弘は加増も受けている。また、この時期に朝鮮半島から陶工たちが薩摩に渡り、窯を開いている。義弘はこれを奨励し、薩摩焼へと発展する。
これぞ「鬼」の本領「泗川の戦い」
島津家内では朝鮮出兵に対して消極的な態度をとる者が多かったが、義弘や忠恒(義弘の子)ら従軍した人々は勇猛な戦いぶりを見せた。とくに劇的だったのが慶長3年(1598年)の泗川(しせん)での戦いである。島津軍は泗川新城を築いて約7000の兵で守っていた。そこへ董一元(とういちげん)が率いる明・朝鮮連合軍が攻撃を仕掛けた。敵軍は数万以上とされ、史料によっては20万とも伝えられている。敵は圧倒的な兵力差に勢いづいて一気に城を落とそうと力押しの戦闘を仕掛けた。対する島津軍は城に篭って防戦。相手を十分に引き付けたうえで鉄砲を撃ちかける戦法も効果的で、寡勢ながらもよく持ちこたえた。それと同時に奇襲作戦も実行し、敵方の食糧を焼き払うことに成功する。さらに、城門破壊用に敵軍が用意していた火薬が爆発して相手方は混乱した。島津軍はそこへ討って出た。島津軍が得意とする「穿(うが)ち抜け」(敵の大軍勢に穴を空けるように突撃する)という戦法は精強で、「釣り野伏せ」も用いて、大軍勢を崩壊させた。島津家の記録によると挙げた首級の数は3万8717にもなったという。撤退戦となった露梁(ろりょう)海戦でも奮闘し、順天城に取り残されていた小西行長軍の救援に成功している。
勝栗神社
勝栗神社
文禄の役の出陣前に、義弘が戦勝祈願に訪れている。本来の名称は「正若宮八幡」だが、明治時代に「勝栗神社」と呼ばれるようになった。義弘がここで詠んだとされる和歌「野も山もみな白旗となりにけり今宵の宿は勝栗の里」に由来する。
(姶良郡湧水町木場)
精矛神社
精矛神社
精矛厳健雄命(くわしほこいずたけをのみこと)(島津義弘)を祭神とする。境内には朝鮮から持ち帰った石臼と手水鉢も置かれている。これらは船を安定させるための重りとして積み込まれた。
(姶良市加治木町)
朝鮮から持ち帰った石臼
朝鮮から持ち帰った石臼
 
徳重神社
徳重神社
精矛厳健雄命(島津義弘)を祀り、義弘の木像をご神体としている。もともとは義弘の菩提寺であった妙円寺があった。義弘が関ヶ原から生還したことを記念して、旧暦9月15日(関ヶ原の戦いのあった日)に徳重神社と妙円寺を詣でる行事が続いている。
(日置市伊集院)
堂平(どびら)窯跡
堂平(どびら)窯跡
文禄・慶長の役の際に渡ってきた陶工たちは苗代川(現在の美山)に集落を作り、窯を開いた。この地区では現在も薩摩焼が作り続けられている。堂平窯跡は17世紀に開かれたものを移設。朝鮮半島の様式が見られる。
(日置市東市来)
 
古帖佐焼宇都窯跡
古帖佐焼宇都窯跡
朝鮮半島から連れ帰った陶工に朝鮮式単室傾斜を開かせた。ここで茶道具などを製作。
(姶良市鍋倉)
 
帖佐御屋地跡(島津義弘居館跡)
帖佐御屋地跡(島津義弘居館跡)
文禄4年(1595年)に、義弘は栗野から帖佐に移る。居館跡には石垣や大手門の基礎などが残っている。この地には稲荷神社が移築されているが、泗川の戦いで明軍に突入して勝利に導いた2匹の狐を祀ったもの、という由来がある。
(姶良市鍋倉)
 
義弘を慕う精鋭 関ケ原に集結す
秀吉の死後、徳川家康が台頭。家康の専横に石田三成らが反感を示し、天下の趨勢は一触即発の様相であった。 義弘は変事に備えて国許に兵を送るよう要請しているが、庄内の乱の混乱もあって派兵はされず。それでも義弘を慕って駆けつける者もあり、島津軍は1500ほどの軍勢となっていた。家康が会津(現在の福島県、上杉景勝が家康に反抗していた)に向けて軍を発すると、これを機に反徳川派が挙兵。戦端が開かれた。
勝利に酔う家康も慌てた「島津の退き口」
慶長5年9月15日(1600年10月21日)、徳川家康に味方する東軍と反徳川派の西軍が美濃国(現在の岐阜県)関ヶ原で対峙した。主要大名の多くが参加し、軍勢は両軍合わせて20万ほど。数の上では、両軍は拮抗していたが、戦闘時間は半日にも満たず、東軍の圧勝であっけなく決着する。島津軍は西軍に参加。兵士数は約1500と少なく、陣を張ったまま軍を動かさなかった。敗色濃厚となって味方部隊が敗走する中で、戦場に取り残された義弘も死を覚悟したが家臣に諌められて脱出を目指すことになる。しかし、周囲は敵だらけ。背後も撤退する西軍部隊で混乱していた。島津軍が取った撤退の進路は、なんと徳川本隊のいる正面。敵中突破である。家康の本陣まで差し掛かり、進路を変えて徳川軍の脇を抜けていった。徳川軍からは井伊直政・本多忠勝・松平忠吉などが執拗に追撃。部隊の一部が足を止めて鉄砲を撃ちかけ、捨石となって時間を稼ぐ「捨て奸(がまり)」という壮絶な戦法も使っている。また、家老の長寿院盛淳や甥の島津豊久などは自分が義弘であると名乗って身代わりになった。兵のほとんどを失いながらも、義弘は脱出に成功した。その後は、大坂で人質となっていた家族(妻など)も取り戻し、海路で薩摩まで逃げ延びた。義弘とともに帰還できた兵士はわずか数十名ほどだった。
関ケ原から帰還、その後ー
国許に戻った義弘は桜島に蟄居するが、徳川方の襲来に備えて守りを固めたりもしている。その後は、一線から身を引いて隠居する。帖佐館から平松城、加治木館と居館を移し、晩年を過ごした。義弘は領内をよく治めて産業の振興、教育などに尽力した。海外交易にも目を向けており、ルソンや琉球王国、明に書簡を送ったりもしている。また、農村の祭りとして太鼓踊りや棒踊りも奨励。これらは現在も姶良市内に残っている。元和5年(1619年)に逝去。享年85歳(満83歳)。
加治木島津屋形跡
加治木島津屋形跡
慶長12年(1607年)に義弘が帖佐から移り住み、晩年を過ごした。現在の加治木高校・柁城小学校が屋敷の敷地であった。護国神社のある一角に石垣などが残る。
(姶良市加治木町)
実窓寺磧(かわら)
実窓寺磧(かわら)
義弘が逝去すると13人の殉死者が出た。この実窓寺磧では7人が切腹した。彼らの墓所は徳重神社境内にある。
(姶良市加治木町)
 
平松城
平松城
慶長10年(1605年)から約2年間、義弘の居館となった。現在は重富小学校が建つ。野面積みの石垣が残る。学校の前の広い道は馬場跡。
(姶良市平松)
 
加治木くも合戦
加治木くも合戦
毎年、6月(第3日曜日)に行われている伝統行事。棒の先でコガネグモを戦わせる。由来には諸説あるが、島津義弘が朝鮮の役の際に兵士を鼓舞するために行ったのが始まりとも伝わっている。
(姶良市加治木町)

愛され続けているシンプルな和スイーツ

愛され続けているシンプルな和スイーツ

姶良の名物となっている「加治木饅頭」は義弘に由来する(諸説あり)。加治木移城に際し、らんかん橋を造営する際に、休憩のお茶菓子として出したのが始まりとも言われている。
※画像はイメージです

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