松木弘安は出水郷脇本の郷士長野増右衛門の次男として生まれ、5歳の時に松木家の養子となりました。長崎や江戸で蘭学や医学を学び、集成館事業では反射炉の建設や電信実験、綿火薬の開発、ガス灯研究など幅広く活躍。1865年には、薩摩藩英国留学生とともにイギリスに渡り、幕府の貿易独占を排除するためイギリス外務省へ協力要請を行いました。明治以後は、「寺島宗則」と改名し、神奈川県知事を務めた際には,国内外の電信政策を推進し,「電気通信の父」と呼ばれました。明治政府では外務卿,文部卿,元老院議長を歴任し,日本外交の近代化と不平等条約改正に尽力しました。
薩摩藩英国留学生とともにイギリスに渡った、藩使節の五代友厚や新納久脩。彼らはプラット・ブラザーズ社に紡績工場の設計を依頼します。そして、機械を発注し、技師派遣も依頼しました。工場はプラット・ブラザーズ社の設計に手を加え、地元の凝灰岩を使った石造りの建物。現場では、司長ホームを含む7名のイギリス人技師が200名余りの職工に技術指導を行いました。原料の綿花は関西方面で買い付けたもので、これを紡績工場で白木綿や、絣などに加工。その多くは関西方面で販売されていました。
日本で最初期の木造西洋建築。西欧人たちがアジアなどの植民地によく建設したコロニアル様式の建物です。外見は洋風ですが、屋根裏の小屋組みが和小屋であり、見えないところに日本の建築技術も用いられていました。イギリス人の指示に基づき、日本人の大工が建てたと考えられています。イギリス人技師は3年契約で来日しましたが、予定より早く約1年で帰国。これは戊辰戦争がはじまったことや、薩摩の職工たちがすでに水車館で機械による作業を経験していたことから、技術を短期間で習得できたためといわれています。
開成所はもともと島津斉彬が計画し、薩英戦争後、島津忠義や小松帯刀らによって藩士がヨーロッパの科学技術を学ぶために設立されました。石河確太郎や松木弘安(寺島宗則)などの西洋学の第一人者が教授となり、英語やオランダ語のほか、砲術、数学、物理、医学、測量術、航海術などの授業が行われました。60~70名の学生のほとんどが、藩校である造士館などから選ばれた成績優秀な人材です。学生には給与が米で支給されていて、藩の将来を担うエリートを育成する学校でもありました。1865年に派遣された薩摩藩英国留学生は、開成所の優秀な学生を中心に選出されています。
1867年に竣工した鹿児島紡績所には、薩摩藩英国留学生とともにイギリスに渡った五代友厚、新納久脩が、当時世界最大の紡績会社であったマンチェスターのプラット・ブラザーズ社に発注した紡績機械一式が備え付けられていました。1897年に鹿児島紡績所が廃止されると打綿機や梳綿機などが、山形屋製綿工場(現・カクイ株式会社)に払い下げられ1967年まで使用されていました。同年、紡績 100 年を記念して、カクイ株式会社から梳綿機とローラー磨針機が尚古集成館に寄託、展示されています。もつれた繊維をといて方向を整える梳綿機や、ローラーに巻かれた針を研磨するローラー磨針機には、「PLATT BRO.RS & Co. OLDHAM. 1866.」という銘板が付いています。
羽島の港は、甑島出張に見せかけて密かに渡欧する条件を備えていました。留学生は羽島の藤崎家、川口家に約2カ月間滞在して勉強しながらイギリス行きの船を待ちます。1865年4月(旧暦3月)、トーマス・グラバーが手配した蒸気船「オースタライエン号」が羽島沖に到着し、翌日、留学生を乗せてイギリスへと出港。船は約2カ月後にロンドンに到着しました。港は享保年間(1716~1735)に薩摩藩が整備し、1848年に治水工事を行った西郷隆盛らが改築に関わったと言われています。現地には、「西郷さんの玉石垣」と呼ばれる堤防や、薩摩藩英国留学生記念館もあります。
各スポットページに表示されている「行きたい」ボタンをクリックすることで、「行きたいスポットを集めた自分だけのリスト」を作成できます。
「共有URLを作成」ボタンをクリックすると固有のURLを発行できますので、友達や家族と共有し、旅のプランニングにお役立てください。