幕末に将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、王政復古を実現させた小松帯刀の像です。1993年10月13日、西俣敏弘によって制作されました。
(小松帯刀について)
1835(天保6)年~1870(明治3)年
原良町掛越のバス停近くから山手に入ったところに、幕末から明治維新にかけて活躍した薩摩藩の家老小松帯刀の屋敷跡がある。喜入領主肝付主殿兼善の3男として城下に生まれ、幼少のころから聡明で、学問を好み、一たん寝てから夜中に起きて読書したり、歌をつくったりすることに心がけたという。
1855(安政2)年、奥御小姓で御近習番勤を拝命し、翌年、22歳のとき、吉利(現・日吉町)の領主小松清猷の養子となり、小松帯刀清廉と名を改めた。
1861(文久元)年側役に進み、島津久光の藩政改革を助けて藩政の中心人物となり、大久保利通など有志の者を重く用いた。当時、大久保など下級武士は名門の英才小松の力を借りなければならず、小松は、これらをよく助けた。
翌、文久2年、久光上京のとき、家臣の筆頭としてお供し久光を助けて、寺田屋事件、幕府政治の改革、生麦事件などの難局を乗り切って、家老に進み、京都の藩邸に多くとどまって薩摩藩を代表して活躍した。
小松が維新の桧舞台に登場するのは文久3年の薩英戦争や蛤御門の変など、世情が勤王攘夷から公武合体の巻き返し、その分裂、討幕論の台頭と激動したころである。土佐の浪士坂本龍馬などの面倒をみたり、長州藩の依頼を受けて小銃及び汽船を、薩摩藩の名前でイギリス商人グラバーから購入することを斡旋したりした。長州再征の幕府の出兵命令を拒否するという藩論をまとめ、1866(慶応2)年京都の小松邸で坂本龍馬の立ち合いのもとに、小松・西郷と木戸孝允(桂小五郎)の間に薩長同盟を成立させた。
1867(慶応3)年、討幕の密勅を受けた小松は西郷・大久保と帰郷し、討幕挙兵に導き、王政復活、倒幕と明治維新の実現に活躍した。
維新後、徴士参与職、総裁局顧問となった。ついで玄蕃頭、外国官副知事に任ぜられたが、1870(明治3)年大阪で病気のため亡くなった。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)
基本情報
住所 | 〒892-0816 鹿児島県鹿児島市山下町 |
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交通アクセス | ・カゴシマシティビュー「西郷銅像前」下車徒歩約1分 ・市電「市役所前」から徒歩約5分 |
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