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西郷どんゆかりの温泉

明治維新の立役者のひとりであり、鹿児島を代表する人物でもある西郷隆盛は、全国の偉人のなかでも群を抜く温泉好きだったと言われています。温泉に通っていた理由のひとつは、運動と入浴によって健康を維持するため。もうひとつは、趣味の狩りや釣りを一緒に楽しめる環境にあったことで、温泉地では生活や情景を主題にした漢詩を数多く残しています。

日当山温泉

西郷隆盛が最も頻繁に訪れた湯治場。記録では、坂本龍馬が霧島の山手の温泉へ出かけた時期と同時期の慶応2(1866)年3月と、戊辰戦争から戻ってきた明治元(1868)年11月、さらに明治2(2869)年2月には、藩主の島津忠義がわざわざ西郷に会いに当地を訪れています。明治6(1873)年に明治政府内における意見の違いにより鹿児島に戻ってから明治10(1877)年の西南戦争勃発までの時期には、明治7(1874)年12月、明治9(1876)年11月に湯治。その際には地元の名家である龍宝家の屋敷を間借りして滞在しています。

[泉質] ナトリウム-炭酸水素塩温泉、ナトリウム-炭酸水素塩・塩化物温泉
[適応症] きりきず、末梢循環障害、冷え性、うつ状態、皮膚乾燥症など

鰻温泉

西郷隆盛が訪れたのは明治7(1874)年2月から3月にかけて。指宿方面を代表する港のひとつの山川港から徒歩で向かっています。現在も湯けむりが立ち込める湖畔の小さな温泉地ですが、当時もその雰囲気に変わりはなかったようで、同時期の史料でも温泉噴気を利用した天然の蒸し釜での食事の調理が行われていたことが分かります。その調理場は地元で「スメ」と呼ばれ、おそらく西郷隆盛も蒸したサツマイモや卵を食したことでしょう。

[泉質] 単純硫黄温泉、単純温泉
[適応症] アトピー性皮膚炎、尋常性乾癬、慢性湿疹、表皮化膿症、抹消循環障害など(硫黄泉)
     自律神経不安症、不眠症、うつ状態など(単純温泉) 

有村温泉

大正3(1914)年1月12日の桜島大噴火によって溶岩が流れ出し、多くが埋没してしまった有村温泉。それまでは桜島を代表する温泉地のひとつでした。当時、海岸に隣接する場所に湯小屋が並んでいたようで、船着き場とも近く鹿児島から訪れるにも便利でした。西郷隆盛が訪れたのは明治9(1876)年7月のことで、この年の後半には西日本各地で不平士族による反乱が勃発。その直前の穏やかな時期を桜島でのんびりと過ごしていたようです。

[泉質] ナトリウム-塩化物温泉
[適応症] きりきず、末梢循環障害、冷え性、うつ状態、皮膚乾燥症など

吹上(伊作)温泉

明治3(1870)年4月に西郷隆盛は訪れています。もちろん湯治もですが、周辺の山間部で狩猟を楽しんだようで、温泉街から山道へと入った場所には東郷平八郎の揮毫による狩猟場を示す記念碑もあります。また、坊野地区には腰かけたといわれる大岩や、使用したとされる手水鉢が民家に残されています。地元の証言記録によると、温泉を訪れる際には米俵を持参して、野菜などに換えたり食べたりして湯治の時間を過ごしたそうです。

[泉質] 単純硫黄温泉
[適応症] アトピー性皮膚炎、尋常性乾癬、慢性湿疹、表皮化膿症など

指宿温泉

文久2(1862)年2月、島津久光からの召還命令によって奄美大島から戻ってきた西郷隆盛は、船旅などの疲れによる足痛を癒すために指宿の温泉を訪れました。残念ながら指宿のどこの温泉場なのかは史料に見られませんが、当時開業していた温泉場は限られているので、二月田周辺か摺ヶ浜周辺と考えられます。この湯治から政局に戻った西郷は、島津久光の命令に背いたため捕らえられ、6月には徳之島への島送りを受けてしまいます。さらに過酷な状況となる直前の一時の安らぎを過ごした指宿でした。

[泉質] ナトリウム-塩化物温泉
[適応症] きりきず、末梢循環障害、冷え性、うつ状態、皮膚乾燥症など

川内高城温泉

訪れた時期は明確でないものの、西郷隆盛が湯治を楽しんだ際の逸話が数多く伝わる温泉地。この地でも西郷は狩りに出かけたようで、近くの陽成町にはお風呂に入る際に使用したとされる踏み台が伝わっています。また湯治以外には囲碁を打っていたようで、滞在していた民家には碁盤や碁石もありました。

[泉質] 単純硫黄温泉
[適応症] アトピー性皮膚炎、尋常性乾癬、慢性湿疹、表皮化膿症など

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