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西郷どんの島暮らし

西郷は二度奄美群島で暮らしています。
一度目の遠島は潜居という形で、安政の大獄により京都から逃れてきた勤皇の僧・月照と入水自殺を図るものの自分だけが死にきれず幕府から身を隠すことが目的。
二度目は一度目の遠島から許された直後に、藩の実権を握っていた国父・久光の命令に背いたための流罪でした。
ゆったりとした時間の流れる美しい島の風景とそれぞれの島で出会った人々は、その後の西郷の人間形成に大きく影響しています。

西郷どん島ぐらしマップ

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口永良部島

文久2(1862)年2月に奄美大島に滞在中の西郷に召還状が届き、枕崎へと向かう際に10日間立ち寄った島。ここでは風呂に入れてもらった島民にお礼として財布を与えたという話が伝わる。

喜界島

西郷と行動を共にし同じく遠島を命じられた村田新八が流された島。元治元(1864)年2月26日、沖永良部島からの召還命令が出た西郷は、この島に立ち寄り村田も上船させ鹿児島へ向かった。

沖永良部島

徳之島からさらに南に位置するこの島への遠島を命じられた西郷。当初吹きさらしの牢という過酷な環境に置かれていたが、島役人の土持政照の尽力により待遇も体調も改善する。それからは島の若者に勉強を教えたり、飢餓に備えて豊作時に穀物等を保存する「社倉法」を広めたりするなど、島民の尊敬を得た。またのちに西郷家の留守居役を果たす書家の川口雪篷と出会い、書や漢詩で交流を深めた。

徳之島

文久2(1862)年に遠島を命じられた西郷が最初に流された島。西郷のもとに、菊次郎と生まれたばかりの菊草を会わせようと奄美大島から愛加那が到着し、再会が叶った。しかし島津久光からさらなる沖永良部島への遠島命令が下り、再び家族との別れることになる。

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