ここには日本近代化の原点がある。
かごしま産業遺産の道

かごしま産業遺産の道とは

平成27年7月、幕末から明治期までの、日本の産業化を示す8県11市にある23の資産が「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されました。
鹿児島からは、島津斉彬が始めた「集成館事業」に関する「旧集成館」「寺山炭窯跡」「関吉の疎水溝」の3つが含まれています。
県内にはこの集成館事業にまつわる遺産が多数広がっています。
「かごしま産業遺産の道」では、これらの遺産をストーリーとして展開。皆さまに楽しみながら周遊していただき、集成館事業をより深く理解していただくことを目的としています。
集成館事業をキーワードに、「日本を強く豊かにする」ための歴史を紐解く新たな発見の旅に出てみませんか?

集成館事業の概要説明(PDFダウンロード)

産業遺産を彩る19のストーリー

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きっかけは薩英戦争。近代化への道
1863年、生麦事件の賠償金交渉のため、7隻のイギリス艦隊が鹿児島湾へ来航しました。あらかじめ情報をキャッチしていた薩摩藩は鹿児島湾内の砲台を新設、改修し,火薬増産のために火薬製造所を建設するなどイギリス艦隊の来航に備えましたが、イギリス側が薩摩藩の蒸気船を捕獲したことをきっかけに薩英戦争が始まり,激しい砲撃戦によって城下の砲台はすべて破壊されました。一方でイギリス艦隊も薩摩藩の砲撃によりすべての軍艦が損傷しました。この戦争で薩摩藩は、欧米列強との圧倒的な力の差を知ります。そして、薩英戦争をきっかけにイギリスから積極的な技術導入を進めるようになりました。
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ヨーロッパの高炉と薩摩の製鉄炉
1854年、薩摩藩主・島津斉彬は鉄を作る洋式高炉の建設に成功しました。薩摩の製鉄炉は、ヨーロッパと同じく炉が高いことや水車を使う点が共通しているため、薩摩の製鉄技術が応用できたといわれています。鹿児島県南九州市知覧町にある厚地松山製鉄遺跡からは、薩摩藩が幕末以前に高炉状の石組み炉と水車動力による製鉄を行っていたことがわかります。志布志や頴娃の砂鉄が集成館での高炉製鉄に使用され、鍋倉製鉄所や火の河原でつくられた鉄も大砲の素材として使用されました。
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独自に鉄製の大砲を完成させた薩摩藩
日本列島の最南端にある薩摩藩は、他の藩よりもいち早く欧米列強の脅威を感じていました。薩摩藩は欧米列強に対抗するため、鉄製の大砲製造をはじめとする軍備の強化を進めます。そして、自分達の技術や原料をいかしつつ、ヨーロッパの科学技術と融合し、気の遠くなるような回数の試行錯誤を繰り返し、鉄製の大砲を完成させました。幕末に鉄製の大砲製造に必要な鉄をつくる高炉や、鉄を溶かして砲身をつくる反射炉、砲身に穴を開ける鑚開台の3つを建設できたのは、薩摩藩だけでした。
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薩摩藩初の砲台・青銅砲の製造へ
島津斉興は1824年の宝島事件、1837年のモリソン号事件など欧米列強の脅威に危機感を抱きました。そこで、外国船の来航に備えてヨーロッパ式の砲術を学ぶ砲術館と、青銅砲などの生産を行う鋳製方を設置。これが薩摩藩での大砲製造の始まりで、これらの青銅砲は指宿や山川、根占、鹿児島など、港や海岸部を中心に各地に配備されます。青銅砲はコストがかかるため、島津斉彬が指揮を執った集成館事業では鉄製砲の生産が試みられましたが、鋳製方で培われた技術や経験はその取り組みに活かされました。
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書物で学び、和船の技術で洋式艦船を
島津斉彬は大砲生産と併せて、欧米列強に対抗できる蒸気船の建造にも力を注ぎました。藩内に磯造船所など4カ所の造船所を建設。1854年には本格的な洋式帆船「昇平丸」、翌1855年には国内初の蒸気船「雲行丸」を建造します。これらの洋式船は、船大工がヨーロッパの書物から得た知識をもとに和船の技術だけで建造したといわれています。ただし、洋式船の建造は容易ではなく、薩英戦争後は外国船購入へと方針を転換し、集成館には蒸気船の部品を修理する機械工場が建設されました。
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日本最大・薩摩の火薬工場建設へ
薩摩藩は軍備の近代化のため、火薬の量産に取り組みます。藩内の各地に火薬の原料となる硝石工場や火薬製造所を建設しました。これらの施設は廃藩置県後に明治政府へと継承されます。そして、火薬から生産された弾薬は陸軍火薬庫に保管されました。1877年に起こった西南戦争は、この陸軍火薬庫の襲撃が発端となったとされています。西南戦争後、薩摩藩で培われた火薬の製造技術は薩摩藩の技術者たちによって、東京に設置された目黒火薬製造所へと受け継がれました。
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薩摩藩の防衛力を高める城下の砲台
アヘン戦争で清が敗れた後、イギリスとフランスの艦船が通商を求めて琉球に来航する事件が起きました。これに危機感を抱いた島津斉興は、外国船の侵入に備えて藩内各所の沿岸に砲台を建設。島津斉彬が砲台を改修し、防衛力を高め、さらに鹿児島城下に砲台を新設しました。1863年の薩英戦争では斉彬が整備した城下の主力砲台を使ってイギリス軍と戦いました。
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鉄製大砲を製造。薩摩の水と火の力
集成館事業は、ヨーロッパの技術によって造られた施設・機械をわが国の伝統技術と融合し、産業の近代化を進めたことが大きな特徴です。ヨーロッパでは燃料に石炭、動力に蒸気機関を使用していましたが、薩摩藩では石炭を産出しなかったことから、かわりに木炭、当時は無かった蒸気機関のかわりに水車を活用しました。石炭の代わりに藩内で豊富に生産されていた木炭に目をつけたのは島津斉彬で、火力の強い白炭を生産すべく技術者を紀州に派遣しました。集成館事業が行われた場所と、そこに燃料・原料及び動力を供給した2つの施設が現在、世界文化遺産の構成資産として登録されています。
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ヨーロッパ式の強力な軍隊をつくる
1837年に日本人の漂流民を送り届けるために山川港に入港しようとしたアメリカ商船モリソン号を、薩摩藩の砲台が攻撃して退去させる「モリソン号事件」が起きました。これに危機感を抱いたのが島津斉興。欧米列強からの脅威に危機感をもったことにより、斉興は青銅砲やヨーロッパ式の銃を造る鋳製方、ヨーロッパ式の砲術を広める砲術館を建設し、軍隊の近代化に取り組みました。そして、斉興の跡を継いだ斉彬はすべての兵士に射撃訓練を受けさせるほか、自ら陣頭指揮を執って軍事演習を繰り返してヨーロッパ式の軍隊の整備を進めました。
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紡績から産業を興す
島津斉彬は紡績業の振興に力を注ぎ、水車で機織機を動かして綿布の増産に取り組みました。1863年の薩英戦争後、薩摩藩はイギリスの科学技術を取り入れて近代化を進めます。さらに、五代友厚らにイギリスの紡績機械を購入させ、技術者の派遣を依頼するなど海外の技術を積極的に取り入れました。そして1867年、日本初の洋式機械紡績工場である鹿児島紡績所を建設。そこで育成された薩摩藩の技術者によって富岡製糸場をはじめ、全国の紡績工場に技術が広がり、日本の紡績事業を形作りました。
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近代化に貢献!「白いダイヤモンド」
江戸時代、奄美大島で生産される黒糖は薩摩藩の特産品であり、最も重要な財源でした。島津斉彬は開国によって白砂糖の商品価値が高くなると考え、オランダの技術書を参考に白砂糖の製造を研究。斉彬の死後、五代友厚の提案によって奄美にヨーロッパの技術による白砂糖工場4か所が建設されました。原料・製品の輸送、薪の調達などが島民の大きな負担となり、2~3年で廃止されましたが、奄美の人々がつくった黒糖や白砂糖は、借金を抱えた藩財政の立て直しに大きく貢献し、集成館事業や明治維新の資金源として日本の近代化を支えました。
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鉱山は薩摩藩の重要な資金源
江戸時代、鉱山事業は薩摩藩にとって重要な資金源のひとつで、幕末には藩収益の二番目の比率を占めるほどでした。特に錫山、山ヶ野、鹿籠は薩摩の三山と呼ばれ、藩が経営を管理しました。島津斉彬は集成館事業の電信実験を応用し、火薬を用いた採掘法を行うなど、ヨーロッパの技術を導入しました。明治時代には、当主の島津忠義がフランス人技師を招き、ヨーロッパの技術や蒸気機関を導入するとともに採掘した金や資材を輸送する道路や橋を整備。1907年、鉱山の設備は蒸気機関から電力に切り替えられ、山ヶ野・永野金山の採金量は大幅に増加します。
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伝統的な薩摩焼が近代化や外交に貢献
島津斉彬は、高炉、反射炉建設に必要な1500度の高温に耐えるレンガを開発するため、薩摩焼の陶工らに耐火煉瓦の製造を命じました。また、薩摩焼の輸出により藩を豊かにするため、従来の薩摩焼を金を使った艶やかな焼き物に改良。1867年のパリ万博では、12代沈寿官や朴正官らが出品した薩摩焼が高い評価を受けました。その後、フランスではジャポニズム旋風が起き、薩摩焼はわが国の主要な輸出品になり、ヨーロッパ諸国で薩摩藩の存在感が高まり、薩摩焼の伝統技術が、藩の近代化や外交に大きく貢献したといわれています。
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集成館で今もつくられる「薩摩切子」
薩摩藩でのガラス製造は、島津斉興が中村製薬館で薬瓶を製造させたことから始まります。島津斉彬はガラス製品を工芸品として海外に輸出することを目指してガラス産業の育成に取り組み、「薩摩切子」を完成させました。1855年に集成館の一角にガラス工場が建設されると、5年後には薩摩藩のガラス技術と設備は国内最高水準に達します。工場は1877年の西南戦争で廃止されましたが、その後1985年に復活。現在、集成館事業の伝統を受け継ぐ唯一の産業として創業された地で「薩摩切子」は生産され、鹿児島を代表する工芸品となっています。
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薩摩藩・最先端のインフラ実験に成功
薩摩藩では電気通信の実験を行い、その成果を山ヶ野金山や永野金山の採掘のための地雷や、薩英戦争の際に設置された水雷に応用しました。また、島津斉彬はヨーロッパの町のように城下にガス灯の設置を計画。1857年には、仙巖園内の鶴燈籠でガス灯の点火実験に成功しました。明治維新後、外務次官となった松木弘安(寺島宗則)は、集成館での経験を活かして横浜・東京間に電気通信施設を開設。長崎・上海間では海底ケーブルの設置にも取り組みます。そして、人々から「日本電気通信の父」と呼ばれました
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農業が人々の暮らしを豊かに導く
薩摩藩では領地のほとんどがシラス台地であったため、他の藩に比べて米の収穫量が上がりませんでした。そのため、藩は温暖な気候を利用してサトウキビやレイシなどの薬用植物の栽培を行い、財政を補っていました。島津斉彬は、農業は国の基本という考えをもち、肥料や農耕具を改良し、水田開発を行いました。さらに、農作物の増産に取り組むとともに、白砂糖の製造、研究やオリーブ栽培など新たな商品となり得る作物の開発を行います。また、水不足に悩む指宿では、井戸や農業水路を建設。耕地の拡大と農民の生活の向上にも熱心に取り組みました。
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西洋技術の研究と人材育成
集成館事業がスタートした時は、鎖国で外国人技師を招聘することができず、近代化事業はヨーロッパの書物だけで自力で進めなければなりませんでした。島津斉彬は近代化に向け、ヨーロッパ技術の研究所を設立。併せて近代化事業を担う人材の教育にも力を入れました。また、ヨーロッパの技術を学ばせるために、藩士に江戸、大阪、長崎への留学を勧め、特に長崎海軍伝習所には、航海術を学ぶために多くの留学生を派遣。その中から大阪商工会議所の初代会頭・五代友厚や外務次官・寺島宗則など、後の日本の近代化を支えた多くの人材が育ちました。
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琉球王国を介した外交で財政を強化
薩摩藩にとって琉球王国を介した外交、交易は非常に重要なものでした。藩の外交や防衛政策は琉球王国からもたらされる外国の情報をもとに決定され、密貿易による利益が藩財政や集成館事業の主要な資金源のひとつになっていたからです。藩では琉球王国からの使者をもてなすため、城下に琉球館を建設するなど丁寧な受入を行いました。また、堤防整備などを通じて御用商人を支援し、利益をあげた濱崎太平次などの海商は、物資の海上輸送や多額の資金援助を通じて集成館事業を支えました。
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英国留学生派遣と機械紡績
薩英戦争をきっかけに、薩摩藩はヨーロッパ、特にイギリスの科学技術を導入して近代化を進めていく必要性を感じていました。1865年科学や軍事に関する人材育成の洋学校、開成所の学生ら総勢19名の留学生をいちき串木野市の羽島の港からイギリスへと密航させます。留学生を率いた五代友厚はマンチェスターのプラット・ブラザーズ社に紡績機械の購入や技師派遣を依頼し、日本初の洋式機械紡績工場である鹿児島紡績所の操業を実現。松木弘安(寺島宗則)や五代友厚に加え、当時の留学生は、その後海外での経験を活かして明治政府の外交官や政治家、実業家として活躍しました。

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